全盛期のF1には、音速の貴公子がいた
今の若い人にはわからないことだろうし、30代後半以上の世代しかリアルタイムで感じることができなかっただろうが、バブル絶頂からバブル崩壊や失われた30年に繋がっていく時代にあるスーパースターがその呼び名のとおり音速で人生を駆け抜けていった。
幼少のころ放送がはじまって、おそらく日本では全盛期だったフォーミュラ1。
いわゆるF1。
週末F1GPをみるのが幼かった私の楽しみでもありました。
日本人ドライバー・中島悟が、はじめてフルタイムF1ドライバーになった1987年。
ロータスにホンダがエンジンを供給し、ロータス・ホンダで中島悟のチームメイトとなったのが、アイルトン・セナだった。
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その年からはじまった日本GPも含め、アイルトン・セナとホンダ。
アイルトン・セナと日本との関わりのはじまりとも言えた。
その年1987年はF1ルーキーの中島悟が7ポイントを獲得したのに対して、ファーストドライバーのセナは優勝2回と57ポイントを獲得している。
同じホンダエンジンを共有していたウィリアムズにたいして、ロータスがマシンの戦闘力の差があったためにセナは翌年1988年からマクラーレンに移籍し、セナの移籍とともにマクラーレンにホンダがエンジンを供給しはじめるようになったのが1988年からのマクラーレン・ホンダの全盛期へと繋がっていきます。
それが、日本でのF1ブーム。
F1の最盛期だったと思います。
セナとは
アイルトン・セナ
アイルトン・セナ・ダ・シルバ
(Ayrton Senna da Silva)
ブラジル人のレーシング・ドライバーでした。
1960年3月21日に生まれ
1994年5月1日にレース中の事故で亡くなります
F1世界選手権において、
1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオン
その3度のチャンピオンはマクラーレン・ホンダで成し遂げたものでした。
古舘伊知郎氏が実況中継でセナのことを音速の貴公子と呼んだのが1番有名な異名ではないかと思います。
セナは
'84 トールマン
'85-'87 ロータス
'88-'93 マクラーレン
'94 ウィリアムズ
で162戦して
ポールポジションを65回
優勝を41回
表彰台(3位以内)を80回
などを記録しています
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プロフェッサーことアラン・プロストや無冠の帝王ことナイジェル・マンセルら個性あふれるライバル
ポールポジション獲得回数などをみればわかるように、セナは一瞬の速さには定評がありました。
スピードを競うF1の申し子とも呼べるレーサーだったと言えるかもしれません。
安定した早さと戦略で強さを発揮したプロフェッサーと呼ばれた、無駄のない戦略的レースで、レース中の追い抜きのうまさをみせつけるアラン・プロスト。
ミスや不運に泣き、無冠の帝王や荒法師や暴れん坊の異名をもつ、豪快かつ大胆でみるものを惹きつけるドライビングスタイルのナイジェル・マンセル
自由人と評されたネルソン・ピケ
セナはそういったライバルたちとともに、当時四天王とか、セナ・プロ対決などと言われていました。
シフトワークのピケ、ステアリングワークのマンセル、タイヤ使いのプロスト、
アクセルワークのセナとも呼ばれ、コーナーでアクセルを小刻みに煽るドライビングを、セナ足と呼んでいた。
雨のレースにも強いという印象が強い。
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セナの最も印象に残る1992年 第6戦 モナコGP
記憶に残るようなレースをたくさんしているが、誰しもの記憶に残っているレースといえば、1992年の第6戦モナコGP。残り7周で起こったドラマから、セナvsマンセルのチェッカーまで続く4周にも及ぶテール・トゥー・ノーズの大バトル。
前年よりウィリアムズが空力に力をいれたマシンがFW14でした。
その空力マシンに、1992年にセミオートマチックトランスミッション、トラクションコントロールシステム、無敵のアクティブサスペンション等を搭載した、歴史的名車とも言えるハイテクマシンがFW14B。
その車の圧倒的なパフォーマンスから開幕からウィリアムズ・ルノーのFW14Bの2台が
異次元のワンツー体制を築いていく。
開幕・南アフリカGPからメキシコ・ブラジル・スペイン・サンマリノGPまで5連勝のマンセル&ウィリアムズ ルノー FW14B。
前年の1991年チャンピオンのタイトルを取ったアイルトン セナは、1991年シーズン終盤にせまり来るウィリアムズのFW14のそのポテンシャルの高さを感じ、ウィリアムズ移籍も考えていたのをマクラーレンに留めたのは、ホンダだと言われます。
そのマクラーレン・ホンダMP4/6Bとの戦闘力の差は大きく、スペインから投入したMP4/7Aでもその差は埋まらないのが明らかでした。
絶望的なシーズン序盤、モナコでもセナはウィリアムズ ルノーの2台の後塵の2列目3番手からのスタート。
抜きどころが少ない市街地コース、モナコで絶望的なレースがスタートしました。
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スタートで2番手に浮上
そんなスタートでの1コーナーでウイリアムズのマンセルとパトレーゼに割って入ってセナが2番手になったのが実はドラマのはじまりです。
マンセルの緊急ピットイン
その後先頭のマンセルには徐々にリードを広げられますが、残り8周目にマシンのバイブレーションを感じてマンセルが緊急ピットインすることになってドラマがはじまっていきます。
2位セナとの28秒以上あったタイム差が、ピット作業がもたつく感に縮まっていき、マンセルがコースに戻ったときには、セナはマンセルの5秒前を走っていました。
しかも、ちょうど周回遅れを抜いてセナの前がクリアになったばかりでした。
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両者の前がクリアになったのは74周目、ラスト5周。
約5秒の差をマンセルが脅威のファステストラップで猛追がはじまります。
フレッシュなタイヤが温まってきたマンセルとタイヤは厳しくなったが、燃料が軽くなったセナ&マクラーレン ホンダ。
しかしマンセル&ウイリアムズルノーはたった1周でセナ&マクラーレンホンダの背後にくっつきノーズが接触せんばかりのプレッシャーをかけはじめます。
マンセルのファステストラップ連発からのテール・トゥー・ノーズ
残り4周はテール・トゥー・ノーズ 。
どのコーナーからでもマンセルは外からでも内からでも抜こうとセナにプレッシャーをかけ続けます。
セナは燃料がなくなってきて軽くなったMP4/7Aにホンダ最後のV12エンジンとなったRA122E/Bエンジンを駆使して対抗する。
コーナーでは圧倒的なスピードの差があるのを立ち上がりからコーナーのツッコミまでエンジンとブレーキング勝負で制してギリギリのラインでブロックしながら、厳しいタイヤのマシンをスライドさせながらもおさえていく。
どこからでも抜けるぞというプレッシャーをかけながらもクリーンに最後までバトルを繰り広げる2台。
セナの腕を理解していないとあそこまでの攻めをマンセルもテール・トゥー・ノーズのバトルはできない。
そんな熱狂バトルも『ここはモナコモンテカルロ。絶対に抜けない!』の実況のように、最終コーナーをゆっくり立ち上がってからのフル加速でテール・トゥー・ノーズのままチェッカー受ける2台。
ギリギリの大バトルは最後までセナがマンセルを抜かせずに、セナのモナコでの4年連続勝利で終えた。
その翌年もプロスト&ウィリアムズルノー相手に、モナコで劇的な勝利をあげて
5年連続6回目の優勝となるが、モナコ・マイスターと呼ばれるようになったのは
このころからです。
5月はモナコGPのある月です。
アイルトン・セナはご存知のとおり、1994年5月1日。
第3戦 サンマリノGPの決勝で7周目の超高速コーナーのタンブレロの左コーナーで300キロ以上で走行中、グリップを失ったまま直進してコンクリートウォールに激突してマシンは大破し意識不明のままヘリコプターで運ばれたが、帰らぬ人となってしまった。
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2年以上もウィリアムズのシートを待ち焦がれて念願のシートを手にした年だった。
ウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテク技術がこの年のルール変更により禁止され空力的にも神経質なマシンに仕上がっていて絶対的有利なマシンではなくシーズンをスタートして、前2戦でノーポイントという最悪のスタートだった
サンマリノの前の第2戦は初開催となったパシフィックGP。
その舞台は地元岡山県のTIサーキット英田だったので観戦にいったばかりだった。
そのレースではセナはポールポジションもスタート後即リタイアとなっており、それがセナの日本最後のレースとは思っていなかっただけに残念でなりません。
サンマリノの次が5年連続 6度優勝していたモナコGPというのも何かの縁だったのでしょうか。
日本のパシフィックGPとモナコにはさまれたサンマリノでの最後。
25年以上経った今もあの日を忘れません。
その後それまでのようにF1をみなくなってしまったので、セナがいた時代というのは今でも特別な時代だったと思っています。
春がきてもうすぐゴールデンウイークという季節。
5月になれば思い出す。
モナコ マイスターのアイルトン セナを。
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