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北京世界選手権代表10000m代表の小原怜が天満屋女子陸上部を退部。怪我に苦しみながらもマラソンで活躍。MGC3位などで2度の五輪マラソン日本代表を惜しくも逃すなども経験。駅伝での圧巻の走りなど強さも持った選手でした。レースや経歴も振り返る

 

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天満屋の小原怜選手が24年6月末を持ってチームを去ることになりました。

選手としては引退になるので残念です。

天満屋に入られてから長いことチームのエースとして頑張ってこられた凄い活躍が今も思い出されます。

天満屋に入って強くなる選手も多いですが、天満屋では珍しいタイプの高校時代から世代トップクラスの実力を持った選手、高校生を代表するようなトップクラスのレベルの選手であったというのがほんと特別です。

スピードなどはあっても、さらに磨きをかけるために努力し続ける小原怜選手は天満屋イズムを持った選手です。

気持ちが駅伝やトラック向きであったかもしれないですが、マラソンでも結果を残してくれた選手だと思っています。

スピードはチームの誰よりも秀でた凄い選手だったという印象です。

勢いに乗った小原怜選手の強さは都道府県対抗女子駅伝などでも区間賞などの実績からわかりますが、その走りは群を抜いた勢いあるものだったのが印象的でした。

 

 

 

 

小原怜選手の退部のご報告より・・・・

 

6月30日をもちまして、天満屋女子陸上競技部を退部いたしました。
16年間、恵まれた出逢いの中で多くの貴重な体験をさせていただきました。

会社の方々の支えや応援、スタッフのサポート、先輩方、チームメイト、治療の先生方、
なかなか思うように結果を出せない時も、声をかけて頂いたり、お手紙を下さった方々に
大きく背中を押され、頑張ろうと前を向くことができました。感謝の気持ちでいっぱいです。

これからも自分をつくってくれた陸上競技に貢献したいと思っております。
心より感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

小原怜(おはられい)選手の経歴を振り返ってみます。
 

中学時代は800mなどの中距離で記録を出していた選手でした。

 

高校・興譲館高校時代・3年連続都大路に出場した高校時代に比べ、中学時代は知られていないようですがスピードを持った選手でした。

 

高校は全国高等学校駅伝競走大会女子の部常連で強豪校の興譲館高等学校にすすみました。興譲館高校は全国高校駅伝の17回大会で、その後社会人になってもトラックやマラソンなどでトップクラスの成績をあげてきた新谷仁美選手・重友梨佐選手・高島由香選手などを擁して全国優勝した次の年度に入学しました。

小原怜選手はそんな強豪校の興譲館で1年から都大路を走ったというほんとの高校時代からのトップランナーです。

1年時には3区で区間2位、2年時には2区で区間3位とチームの中心で活躍し、3年時にはエース区間の1区で見事区間賞を獲得し、その年を代表するトップ選手として実力を示すもチームの全国優勝には一歩及ばず悔しいおもいをした経験を持ちます。

3年時は全国高校駅伝1区区間賞の他インターハイ1500m3位に入ったほか、秋の国体5000mに優勝など、高校2年で世界ユース選手権、高3には世界ジュニア選手権に日本代表として出場をした経歴も持ちます。

 

世代トップの高校生として実力を示した小原怜選手は、同じ岡山県出身で興譲館の3年先輩にもあたる重友梨佐選手らがいる地元の実業団の名門・岡山の天満屋に入社し、天満屋女子陸上競技部での長いキャリアをスタートすることになります。

 

 

 

2009年天満屋入社後、1500mや5000mや10000mなどの中距離中心に活躍したのがキャリアの前半と言えるでしょう。

中村友梨香選手(北京五輪女子マラソン代表)坂本直子選手(アテネ五輪女子マラソン代表)重友梨佐選手(ロンドン五輪女子マラソン代表)らの中に入り1年目から活躍して全日本実業団対抗女子駅伝などに入社当初からメンバー入りし活躍したのは流石でした。

入社2年目には全日本実業団対抗女子駅伝のチーム初Vのメンバーとして名を連ねると、翌年にアジア選手権1500m、5000mともに7位入賞を果たしています。15年には日本選手権10000mで3位となり、同年の北京世界選手権にも日本代表として出場しています。

 

マラソンにむけた準備期間をトラックなどの実力者として過ごしてきた小原怜選手は2015年名古屋ウィメンズマラソンで初マラソンに国内招待選手として出場することになりました。

スピードが豊かな小原怜選手はハイペースの先頭集団へ果敢についていった中、15Km過ぎの給水地点で、前田彩里選手(ダイハツ工業)との手足が交錯し転倒してしまうアクシデントが起こってしまいました。

この影響で右太腿を痛めたのが尾を引き、大幅にペースダウンとなったため惨敗となってしまいましたがゴールまで走り抜く姿が小原怜選手の強さなんだと感じました。

 

 

2016年名古屋ウィメンズマラソンが2度目のマラソンになりました。

途中ロングスパートについていけず田中選手らから遅れるも、徐々に巻き返していき田中智美選手に追いついてからは、5キロに及ぶデッドヒートを田中智美選手と繰り広げます。最後の最後までもつれるお互い譲らないデッドヒートの末僅か1秒の僅差で総合3位(日本人2位)になりリオデジャネイロオリンピック女子マラソン日本代表の座をつかむことができませんでした。

2時間23分20秒で自己記録を大幅に更新は達成したのに悔しさが残りました。

ゴール直後の小原怜選手が倒れ込み悔し涙を流していた姿は今も忘れることができません。
(日本人)1番以外が代表になれないのは十分分かっていると結果を受け止め、マラソンの厳しさを知り今年は勝負の詰めを経験させてもらったと前を向いた姿も印象的でした。

天満屋所属選手の五輪女子マラソン種目での代表入りが4大会連続でストップとなることが決まった瞬間だったため、小原怜選手自身も、周りもショックが大きかったと思います。

 

そこが小原怜選手のマラソン第1章だったのかもしれません。

 

 

 

2017名古屋ウィメンズマラソンへ向けて全国都道府県対抗女子駅伝で最長区間での圧巻の区間賞をみせたり好調だった途中に、左足小指の付け根の疲労骨折の診断で欠場になってしまいます。

2018年は年初の都道府県対抗女子駅伝などで圧巻の2年連続のエース区間での区間賞と好調も2018名古屋ウィメンズマラソンに2年振り3度目の出場も2時間27分台の総合8位・日本人5着でここでのMGC出場権獲得にはならなかった中、2018ベルリンマラソンで2時間27分台の10位・日本女子4着だったが「ワイルドカード」の基準をクリアしてこの時点でMGC出場権を獲得に成功しました。

この時期はキャリアの一番良い時期のはずでしたが、怪我との戦いも始まっていたように思えます。

 

怪我や不調などが繰り返される時期で大変な時期の中MGCのある年を迎えます。、2019年に入って調子をあげていき、2019大阪国際女子マラソンに初めて出走することになり、慣れた名古屋からはじめての大阪を迎えます。

他の日本人選手が徐々に遅れていく中で小原怜選手はペースメーカーに順調についていき、ペースメーカーが外れてからは積極的にトップに出て、果敢に勝負を挑むもファツマ・サド選手に7秒差で敗れて自身念願のマラソン初優勝は逃してしまうことになります。マラソン優勝が一番近づいた瞬間でした。それでも日本人で最先着の2位でゴールしただけでなく、2時間25分46秒と自身2番目の好タイムで怪我や不調から調子をあげてきているのが確認でき、MGCにも期待できる流れのように思えました。

 

天満屋チームは小原怜選手と前田穂南選手と谷本観月選手がMGCの権利を獲得しましたが、谷本観月選手は世界選手権の代表に(その後みごと7位入賞)すすみ、オリンピックをかけたMGCには小原怜選手と前田穂南選手が出場になりました。

 

小原選手と前田選手はワコールの一山選手が作ったハイペースにひるむことなくレースを進めましたが、20キロ付近で前田穂南選手が徐々に他の選手を引き離して単独走になる中、小原怜選手も前田穂南選手に引き離されてしまい、暑い中を単独走で3位を走り続けます。なかなか差も詰まらず、差も開かずの状況で終盤まですすんだ中、小原怜選手の粘りが40キロを越えてから急激に前の鈴木亜由子選手との差がつまりはじめるということがわかってきます。

残り1キロ付近からは猛烈に詰め寄って、鈴木選手がなんとかゴールにたどり着いたときには小原怜選手は残り4秒差まで猛烈に追い込んであと少し距離があれば逆転できるというところがゴールでした。

3位となり、オリンピックに可能性は残したが結果として2位を逃したことでオリンピックという舞台に届かなかったのが最初のMGCでした。

その後は怪我などに苦しみ、21年の名古屋ウィメンズで2時間32分03秒の18位となってからは、主要な大会からも遠ざかってしまい、ここ2年ほどはほとんど大会でもみることができなくなっていました。

それでも天満屋女子陸上部に在籍して、チームに寄り添っていましたが、24年6月末を持って陸上部を退部するということになったようです。

 

ほんとに強さもみせてくれたし、まさかとか、あと少しとか悔しさもなかなか味わえないものを経験してきた選手です。

チームにこれだけ在籍する選手も少ないので、ほんとにすごい選手だったなあと思います。

 

地元岡山出身の小原怜選手の活躍はほんと楽しみでした。

すごく誇らしかったです。

いつも応援していました。

 

部は去っても天満屋には残るようなので、チームのために別のカタチで貢献してくれるんじゃないかなと、怪我とか苦しい中、長いことチームのトップ選手としてエースとして君臨した小原怜選手を忘れません。

 

今後の小原怜さんの活動を応援したいと思っています。

ほんと選手としておつかれさまでした。

感動をありがとう。


 

 

 

 

 

 

 

オフィシャルデータ  プロフィール

 

 

 画像など引用させていただきました

 

 



 

 

 

 




引用元  

X(旧Twitter)より写真を引用させてもらっています。





引用元  

https://www.tenmaya.co.jp/track_and_field/index.html

天満屋女子陸上競技部 HPから写真を引用させてもらっています。

 

 



引用元  

https://www.jaaf.or.jp/

日本陸上競技連盟公式サイト - Japan Association of Athletics Federations

 JAAF  日本陸上競技連盟公式サイト  HPから写真を引用させてもらっています。

 

 

名前

小原 怜 (おはら れい) 


1990年8月10日生まれ

 

岡山県倉敷市出身

 

興譲館高等学校卒業

天満屋女子陸上部に24年6月30日まで所属でした。
 

165センチ 

 

 

 

 

 

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